先日、法曹界を舞台とした小説を読んで、
DVの更生に取り組んでいる私の心に深く響く内容に出合いました。
それは熟練の検察事務官が新人弁護士に対して善悪と法律の関係について問いかける場面の会話でした。物語の中でこの弁護士は自身が請け負っている被告人の証言に疑念を持ちつつも弁護士としての責務を全うしなければならないという葛藤を抱えています。
他方、被告人の悪意を立証する検察側の事務官は、
この新人弁護士が担当している被告人は実は根っからの悪人で更生の余地はないと考えています。
そこで検察事務官は罪を犯してしまった被告人の更生の意思の有無を判断するポイントを弁護士に問いかけたのです。弁護士は「罪悪感の自覚が大事なんじゃないでしょうか。
"自分は悪い行為をしている"あるいは"した"という自覚です」と答えます。
これを受けて検察事務官は続けます。
「多くの被告人は公判の場などで"二度としません"と神妙に言いますが、
それは真っ赤な嘘だったという事例も多い。
彼らは何度犯罪に手を染めても"不法行為をしている、した"という自覚をしない人間です」と。
さらに「誰にだって家族や友人はいます。心から好きな何かが存在するはずです。
音楽、映画、小説、アイドル、何だっていいんです。
そんな自分の大切な人やものに顔向けできないと己を制御すれば、
再び犯罪に手を染める事態になんてならないでしょう」
「犯した罪を本当の意味で悔い改めるとは、判決に従って刑期を終えたり罰金を払ったりする行為などではなく、終身、自分を律する覚悟とその実行ではないのか」とも。
このように検察事務官は、長年に渡り法曹界に身を置いて自身が見出だした
"悪人と罪人"のボーダーラインについて弁護士に説きます。
それに対して弁護士は
「あなたは発言が信用できない相手でも"罪悪感の自覚"の有無を確認できたのですか」
と問いかけます。
検察事務官の答えは「残念ですが(それは)誰にも確認できません。
その人間の性根や過去の受け止め方は、行動から推し量るしかありません」というものでした。
私はこの場面のふたりの問答を読み、罪を犯してしまった者がDVを犯してしまった自分と重なり、
更生の可能性はDVをしたという自覚の有無にあり、そして自覚したかどうかが今現在と将来の自分の言動に現れるものなんだと言われているように感じました。
更生プログラムに参加している自分は罪人ではありますが、
更生の余地がない悪人とは違うと信じています。
そして更生することは、これまで傷つけてきた妻と子どもたちに対する償いであるとも思っています。
この物語から加害行為をした者の更生とは
"終身、自分を律する覚悟とその実行"がとても大切なことだと読み取ることかできました。