いろいろな経緯あり、たんとすまいるで学びを進めるにあたって数年が立ち、ご縁があって私にも新しいパートナーができました。今後も、自分の事に向き合いつつ、パートナーとよりよい関係が築けるよう努力を重ねて行きたいと思い、日々学びの実践にとりくんでいる私ではございますが、先日、パートナーの方とお話をしていた時に気がついたことがあるので、この場を借りてシェアさせていただきたいと思います。
その日は、たまたまお金についての価値観の話になりました。その内容は、「共働きの同棲カップル・夫婦がお金の支払いをどうしているか」という話でした。パートナーと他の方はどうしているのかWebでの情報を見つつそのメリットやデメリットについてお話していました。例えば、完全に半分に分ける方法だったり、お互いが支出の種類によって出す項目を決めたりという方法が紹介されていました。そのメリットやデメリットの内容でも話になったのですが、気づきが大きかったのは、その話が終わった後でした。
そんな話をしていた自分は何の気なしに、「でも自分はお金に対してのこだわりはないから、どの方法でも良いと思うけど」と言ったのですが、その発言を受けてちょっと考えたパートナーは、「こだわりがないってのはさ、こだわりを把握してないだけじゃないかな」と言いました。それを聞いてハッとしました。そして次の瞬間、自分が全く無意識に考えなしの発言をしてしまったことを悔いました。
確かに自分はお金に対して意識の薄いところはあります。お金に対しての執着が人より弱いのかなーと感じていたので、そう発言しました。しかし、パートナーに言われたことを改めて思い返してみました。すると、私が一人で生活していたときも、更に言うなら私が加害行為を選択してしまった前のパートナーと生活していたときも、お金を使ったり使わなかったりは、『私がしたいようにしていた』ということに気がついたのです。自分がお金を使ってもいいかな、と思ったことにはお金を使えていたし、それは使わなくても良いかもな、と思うものには決して払うことはしませんでした。私は「生活に必要だと思ったものはお金を出して買う。必ずしも必要がないものは、お財布の状況と相談する」のは普通の事だと思っていましたし、それをこだわりだと思っていませんでした。しかし、よくよく考えると、「生活に必要なもの」という基準も、人によってバラバタだと思いますし、それは『自分が』生活に必要『だと思った』ものという、『自分が思った』という部分が完全に抜け落ちた言葉でした。さらに、私がこの事を意識することなく前のパートナーとどうやって生活していたのかを考えると、それはもう完全にパートナーが私に合わせてくれていただけ、ということにも気が付きました。私からのDVを受けていたパートナーからしてみれば、私に合わせる以外の選択肢がなかったのだと思います。
別にこれはお金の話だけではなく、例えば「晩ごはん何が良い?」に対して「なんでも良いよ」と答えながら、用意された食事について文句を言う、というような状況も同じことだと思います。「なんでも良いよ」は、「『自分にとって都合が良いものであれば』なんでも良いよ」という言葉が抜け落ちているし、こだわりが無いというのは、こだわりを意識していない、こだわりに気がついていない、だけだと思います。これを読んでくださっている皆さんも、「こだわりがないよ」とか「なんでも良いよ」と言ったことはありませんか?私の場合は「こだわりが無い」わけではなく、「こだわりを意識していない」だけでしたし、私が「こだわりを意識しない」で生活できていたのは、周りの人が「私のこだわりに合わせてくれた」ということに改めて気が付きました。是非、皆さんもこれを機に、『自分のこだわり』と、『それに合わせてくれている周りの人』に目を向けてみていただけましたら幸いです。
この事に気がつけたのはパートナーさんの指摘のおかげだと思います。いつも、たくさんの気づきを与えてくれるパートナーに感謝をしつつ、私も自分のこだわりに、それを他の人に強要していないかに、改めて目を向けていきたいと思いました。
P.S.
人生初、スカイツリーに登りました。一番高い展望室から、スカイツリー自身の影を撮った写真です。
高いところが怖すぎて何もできなかった私に変わり、素晴らしい写真を撮ってくれたいとこに感謝をしたいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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