怒りには、大きく分けて二種類あります。
一つは自分自身に満足できないことで生まれる怒りです。
もう一つの怒りは、自分自身の希望が叶わないために生まれる怒りです。
~以上、アルボムッレ・スマナサーラ著 「怒らないこと」 (大和書房)から引用
「怒るのは期待するからであって、期待しても期待通りにいかないから怒るのだ」と。
こう言われても、最初、私は「期待して何が悪いのだろうか」と思っていました。
かつて私は子育ての場面で子供に期待をし、「怒り」を親の特権として行使しました。
子供はもっとできる、できるのに子供はやらない、だから無理にでも頑張らせるのだと。そして「子供に期待している、子供はやればできるはず」と私は言い訳をして、妻が止めるのも聞き入れず、自分の思い通りに子供をコントロールしようとしました。
そしてできなければ怒る。怒って怒鳴るのは親として当たり前。叩くのもやむを得ない。私は、「親子だから」という特権意識を盾に、「しつけ」と称して子供を虐待しました。
一方で、無理して褒めるというのも私にはしっくりしませんでした。
子供がサボっても褒める、怠けても褒める。それは違うだろうと思っていました。
しかし、世の中は自分の思い通りになんか進みません。
そして子供は子供自身の人生を歩み、私の期待のために生きる訳ではありません。
そんな当たり前のことに私がようやく気づいたのは、約20年も虐待をして子供たちや妻を傷つけて離婚をし、たんとすまいるで学びを続けてきてからになります。
学びを通じて私は、子供の表情や行動、言葉を、そのまま「受け入れる」ことが大切と気づきました。もし子供たちがサボったら、「どうして子供たちはサボるのだろう、しんどいからだろうか、難しいからだろうか」と、子供たちの困っていることに私は寄り添うだけでよいと思います。それに私が気づかずに、子供たちは成人してしまいました。
約20年もの間、「期待どおりではない」と子供たちを叱ることで、私は私自身の歪んだ「怒り」を家族にぶつけていました。そして私は、子供に虐待やマルトリートメント(悪い取り扱い)を行い、子供たちの心や気持ち、脳を傷つけました。
そんな過去を、私は取り返すことができません。さらに子供たちや妻には取り返しのつかない傷を残してしまいました。
そんな私が学びを続けながら、今できることは、例えば次の3つだと思います。
①私が子供たちと別れた妻にしてきた過ちを全部認めること。
②今とこれからの子供たちを私は心から信じ、尊敬して、受け入れること。
③もう二度と怒らないための智慧を私が身につけること。
怒りで子供たちや妻との関係性を自ら壊してしまった私は、子供たちや別れた妻に、直接働きかけることはできません。しかし今とこれからの彼ら、彼女らを遠くから信じて受け入れることは私にもできることです。過去は変えられないものの、折角の学びを活かしてこれからの私は、智慧を身につけて、「怒らないこと」を実践していきたいと思います。
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