「無義をもって義とす」という仏教の言葉を知りました。「義」とは意義とか、「正しさ」とかいうことです。超訳すると、自分の「正しさ」を主張せずに、正しくありなさいということではないしょうか。
たんとすまいるでも、「正しさ」は人それぞれだとか、べき論はやめましょう、という話がよく出ます。私も長い間、自分の「正しさ」にとらわれて、相手を攻撃してきました。自分の「正しさ」を主張するのは、自己正当化で、相手の言うことは誤りだと否定することです。
最近、私は「矢印は自分」というのが至言だと思って、そのまま自分のセルフトークの一つにしています。結局、この言葉に尽きるのではないかとさえ思います。自分に矢印を向けるとは、自分の内側の心を見るということです。逆に、自分の外側の世界や相手に矢印を向けると、それは、自分の「正しさ」から相手をジャッジすることになります。
自分の内側を見るとは、「自分の正しさ」を疑うことです。人間は、どうしても、自分が正しいと思いたい生き物です。自分勝手な、自己都合な、自己中心的な生き物です。DV加害者は、それが強いのだと思います。少なくとも、かつての私はそうでした。自己都合の「正しさ」で生きていけば、当然、衝突が起きます。戦争も侵略も同じです。仏教では、善人は、自分の都合に合う人、悪人は、自分の都合に合わない人を指します。人間なんて、所詮、自分の「正しさ」にとらわれる愚かな生き物です。
では、どうすればいいのでしょうか。智慧(知恵)という言葉があります。これももともと、仏教の言葉です。「智慧」の意味を辞書を引くと、「気づき」だと出てきます。「智慧=気づき」なんです。つまり、たんとすまいるで学んでいる気づきとは、仏教では智慧のことなんです。
では、気づきは、どこから来るのか。気づきを与えてくれるのは、自分以外の人です。自分だけでは、自分のアタマの「正しさ」にこだわって考えてしまうので、気づけません。自分以外の相手(たんとすまいるのファシリテーターや仲間、パートナー、子供、その他、自分以外の全ての人)が、「智慧=気づき」を与えてくれます。なので、相手の声を丁寧に聴き、共感すると、気づきが増えます。自分の立場優先で何を願うかではなく、何が願われているかに耳を傾けること。「無義をもって義とす」は、私にとって、自分の「正しさ」にとらわれず、相手の願いを聴いて、誠実に、優しく、相手が幸せを感じるように応答する生き方です。
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