自分の変化にはどんな意識が必要なのか?というお話です。
12月に別居が始まってから、他者に対する罪悪感と自分に対する自責の念が常にあります。
「私はどうしていつも失ってからしか気づけないんだ」という考えが日に何度か巡った時、うぅっと悶絶します。
それから皆さんを見習い、色んな行動を起こしていますが、最近はふと自分の行動に思う事があります。
「私は変わっているんだろうか?」「私はこういう行動で変われるんだろうか」という不安です。もしかしたらご経験のある方もいらっしゃるのではないかと思います。
外部から身に着けたり学んだりする事の大半は知識だと言われています。
人が作った書物、動画、言葉などなど。そこから学べるのは知識で、とても重要なものです。「無知は罪」という事を痛感したので・・。
ただ、知識よりもっと尊く、大切しにした方が良いもの、それは知性だと思う時がありました。
例えばTV番組とかで色んな知識をお披露目していても尊敬出来ない、もしくはどうも好いて見られないなぁと思う人はいたりしませんか。
そこには勿論、知性の有る無しの二元論では無く、価値観の違いとかもあると思いますが・・。
では自分に置き換えてみた時、例えば知らなかった知識を知ったとして、それを言葉や文章に適切にアウトプットしたと思ったとして、その時自分は相手からどう見られる事があるでしょうか?
そしてこの文章も知識であって知性では無くて。知性ある書き方が出来ているか微妙なものです。
知性は、人同士が接触した時に、初めて生まれるものでは無いのかな、と思う時があります。
人工知能はあっても、人工知性はありません。
知識は学べますが、知性は感じる事しか出来ません。
知識は答えがありますが、知性は答えがありません。
知性は人からプレゼントして貰えません。
知性とは何でしょう・・まだこれだという答えは持っていませんが、瞬間瞬間の人との間に、全体の雰囲気や感情や振る舞い等を含めて、今まで身に着けた知識を、相手にとって適切に工夫して判断する能力・・?
思いやり、空気を読む、優しさ、色んな単語でまとめられそうでまとめられません。
ここから主旨ですが、失ってからしか気づけなかった原因は私の中の経験が知識で止まっていたからなのでしょう。莫大な物事を学んだつもりで、知性ある生き方を考えていなかったから、失ったのです。
まだまだ葛藤をするのでしょうが、これからは、気づいた事は残せる/遺せるという価値観やその選択肢を大切にしたいと思います。
その上で、失う前に気づけるかどうかは、これまでに気づいた事をちゃんと体に残して然として生きているかどうかの意識がとても重要で、
そういう生き方が出来た時、初めて変わる事が出来るのかなと思う日々です。
その為、最近はたんとすまいるで学べる事は決して知識だけでは無いかなと思いました。
顔や表情が見られます。リアルタイムで自分と相手が対話しています。思いやりや優しさを感じる時もあります。
まだまだ未熟者ですが、皆さんに対して思いやりやその時求められている事を感じながらこれからも一緒に学べていけたらな、と思います。
3-10