「かも」の大切さ

たんとすまいるに来て、3年以上がたちました。併せて別居も始まりました、当初は、数カ月で家に帰れるだろうと、たかを括っていました。

 

 この先、どうなるのかは皆目、見当がつきません。DVを手放すことと、パートナーとの関係性の構築は全く違う次元だというのは、とてもよくわかります。関係性は、相手がいることです。相手の気持ち、心の回復、状況、希望などは、私にはどうすることもできません。こういう「課題の分離」が分かっただけでも進歩です。同時に、「どうすることもできない」は、相手や状況を突き放すことではありません。どんな形であれ、少しでも成長し、阿弥陀如来のお迎えがあるまでは、家族を支え、助け、人の役に立てるよう強く生きていきたいと思います。

 

自分が変わり始めているという感覚は少しはあります。同時に「まだまだだな」ということも多いというのが今です。会社などで、他の人と衝突することは全くありませんが、モヤモヤすることや、少し言い返すような感じになってしまうことがまだ稀にあります。ただ、それだけ、センサーの感度も高くなって、自分に厳しくなれているということでもあります。

 

なぜ、自分が変わるのに時間がかかっているか。それは自分が頑固だからです。頑固というのは、「自分は正しい」という自己正当化の度合いが強いということです。自己正当化は誰にでもあるものですが、私のようなDV加害者は、これが強く、しかも、自分の「正しさ」を脅かされると、内面の弱さから、攻撃的になるのです。

 

以前、たんとすまいるで、リフレーミングの練習をよくしました。その中で、ファシリテーターさんが、相手のことを決めつけないで、相手の見えないところを想像し、「相手は~かもしれない」と考えることが大切だ、という言い方をよくしていました。当時は、なんのこっちゃ、と思いましたが、今は、この「かも」がすごく大切だ分かってきました。

 

相手の言葉や態度(見え方)で、相手を決めつけてはいけないのです。思い込みをしてはいけないのです。それが頑固さであり、自己正当化であり、自分にとっての「正しさ」であり、いわば、妄想、強烈な無意識レベルの自我です。ここにメスを入れないといけません。決めつけないで、相手のことを「かも」と思えるリフレーミングが重要なのです。

 

ジャッジ(判断、思考)の留保と言ってもいいでしょう。思い込み、決めつけでジャッジすることが、相手への怒りにつながります。でも、相手はそうでない「かも」しれないのです。この、ジャッジの留保が、他者理解の第一歩です。自分という人間の思考の限界を知ることです。このジャッジへの欲望、自分が正しいという執着は、手ごわいです。頑固です。今、私は、この辺りを克服するために、日常のさまざまなシチュエーションで実践トレーニングをしています。 

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