やめるということ

先日、酒をやめてから45日が経過した。もうこの先、酒を飲むことはないだろう。

 

思えば、私の両親は恐らく平均以上の酒飲みだった。仕事柄、職場の飲み会は少なかったが、その分、自宅でよく晩酌をしていた。二人とも主に500mlの発泡酒を飲んでいたが、特に母親は興が乗ると2本、3本と空け、ろれつの回らない口で説教とも言えない絡みをしてきて、とても嫌だったことを覚えている。

 

そんな私も、大学入学を境に大の酒好きに変わった。いつからか、自分は「内気でコミュニケーション下手」という認識を持つようになっていたので、新入生や上級生と話すのはとても気が重かった。しかし、酒を飲むことでその心のハードルが取り払われ、素晴らしい一体感とともに右の彼とも左の彼女とも仲良くなれる感覚を得た。

 

そうしたこともあって、バイト先は飲食店を選んだ。バイト後は夜勤明けのバイト仲間と昼前まで飲みに行き、その後、山手線に乗る。座った途端に深い眠りに落ち、山手線を何度も回る。結局、大学の授業には間に合わず、家に帰ることもできず、そのままの恰好でまたバイト先に向かったこともあった。

 

こうした「やらかし」は社会人になっても変わらなかった。酔っぱらって乗った電車では、大学時代同様に眠りこけ、当時住んでいた社員寮のあった大宮を大きく飛ばし、宇都宮の手前で深夜1時に途方に暮れたことがあった。そんなことを繰り返していると、だんだんと漫画喫茶や24時間営業のマクドナルドを探すのも面倒くさくなり、最終的には駅前のベンチで野宿したこともあった。

 

そのほか、酔っぱらいの自分が他の酔っぱらいに正義面して苦言を呈した結果、頭をかち割られたり、もうここには書けないことも山ほどあった。

 

しかし、そうしたトラブルを数々巻き起こしてきても、自分にとっての「武勇伝」ができたくらいにしか考えていなかったし、自分を「解放する」酒への信頼が揺らぐことはなかった。

 

当時は頑なに受け入れようとしなかったが、パートナーの中には、はっきりとしたダメージと私への不信感が着実に蓄積されていったのも無理はない。しかし、私はと言えば、「酒こそが生きがい」というモチーフのもと、日夜飲み続けていたのだった。

 

そうした中、ひとつの事件をきっかけに、はたと酒をやめる決心をした。端的に言うと、知人に嫌な思いをさせると同時に、自分の人生における目標にも悪影響を及ぼしたことが、酒をやめた理由ということになる。(その事件自体、私の優越コンプレックスや女性を見下すような考え方について、再認識するきっかけになるので、またの機会に詳細を書けたらと思う。)

 

他人やパートナーに迷惑をかけても酒をやめようとはしなかった自分が、自分の人生が絡んだ途端にやめる決心をしたというのは、とても自己中心的ではあるが、何にせよやめると決めたら、これまでの酒への執着が嘘のようにすんなりとやめることができた。下準備として、イギリスの禁煙活動家であるアレン・カーの『禁酒セラピー』という本を一通りは読んだが。

 

実際に酒をやめたことで気付いたことがある。ものごとを継続するのには忍耐力がいるが、何かをやめるのは意思だけだということだ。もちろん、やめる上での動機の強さは影響するかもしれないが、意思の強さは関係無い。何かをやめたらそこで正真正銘終わりであって、やめ「続ける」必要は無いからだ。アレン・カーはこのことを「最後の一杯を飲み干した時点で、あなたは自分の目標を達成した」と表現している。もう少しイメージしやすく言い換えれば、「手放すことを決心し、実際に手放したのなら、もう自分のものではない」ということだろう。

 

こんなに簡単にやめられるのに、なぜ今まではやめられなかったのか。おそらくそれは、本心のところでは変化を拒んでいただからだと思う。口先では「もう酒は飲まない」と言いつつ、本心としてはほとぼりが冷めたらまた飲もうという気持ちだったのだろう。つまり、私の洞察によれば、悪習などをやめると言いながらやめない人間は、そもそもやめる気が無いということになる。

 

となると、他にもいろいろと課題を抱えながら、手放せていない私は、そもそも手放す気が無いのか…。変化の旅路はまだまだ先が長そうである。

                                       5-11