平和への誓いと境界線

2024年8月6日、79回目の広島・原爆の日。

今年も、平和祈念式典でのこども代表による「平和への誓い」がなされました。

その中に、次の一節があります。

 

願うだけでは、平和はおとずれません。

色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。

 一人一人が相手の話をよく聞くこと。

「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。

仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。

私たちにもできる平和への一歩です。

<以上、広島市役所ホームページの「平和への誓い」から抜粋>

https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/education/16190.html

 

この誓いは、DVや虐待をしてきた私にも当てはまる言葉です。

この誓いのように「話をよく聞くこと」や「『違い』を『良さ』と捉えて、自分の考えを見直すことを私はしていませんでした。逆に私は話を聞かず、自分の考えを押し付けて、元妻や子どもたちを傷つけてきました。そのような私の一方的なDVと虐待によって、約2年半前に私は離婚しました。

DVや虐待とは、私が話を聞かずに一方的に言葉の暴力を浴びせて、自分の考えを押し付けるために精神的、身体的な暴力をふるって家族を恐怖に陥れたという点で家族への戦争そのものです。それゆえ、元妻や子どもたちにとって、まさに私が「願うだけでは平和はおとずれません」。

別居や離婚によって私は家族から物理的に離れるだけではなく、少なくとも私自身が「相手の話をよく聞くこと」や、「『違い』を『良さ』と捉え、自分の考えを見直すこと」を実践し、自分自身を変えることを成し遂げることが必要です。

そして大事なことは、私が決して「自分は変わった」と、元妻や子どもたちに押し付けないことです。もしかすると「私は変わった」と思っても、元妻や子どもたちにとっては「変わらない」し、「変わることなどない」のかもしれません。その『違い』を受け入れて、例えば「まだ学ぶことがある」という『良さ』と捉えることを、私はこれから一生実践していきます。それが少しでも、別れた家族にとっての「平和への一歩」になればよいと願います。そしていつか、平和への誓いが求める私たちの「平和への一歩」に繋げていきたいと思います。

 

それにも拘らず、私は未だに考え方の違いを理解せず、子どもたちとの境界線を侵し、傷つけるような不機嫌な態度をとることがあります。それは例えば「子どものためを思って」という言い訳を梃子にして、離れた子どもに不機嫌な言葉をかけてしまうことです。更に申せば、その境界線を侵したことにすぐに気づけないことも私の課題です。

しかし今はたんとすまいるで相談し、仲間の指摘によって境界線を侵した私の過ちや、『違い』を『良さ』と捉えられていないことに気づかせてもらっています。そうした学びを積み重ねて、私は「平和への一歩」に繋げていきたいと思います。

今の私の目標は「相手の立場で考える」ことです。しかし「相手のためを思って」という考え方は、結局「私自身の立場で考える」お節介であり、「相手の立場で考える」ことに程遠いと、改めて理解します。まずはもっと「相手の話をよく聞くこと」から、一歩一歩、確実に自分の考えと言動を変えていきたいと思います。

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