「たんとすまいる」での学びを踏まえて、最近、自分に言い聞かせているのは、この世界は、自分自身を含め、すべて「自然」だということです。
地下鉄の通路でぶつかってくる人や、電車のドア付近に強引に割り込んでくる人、道路でぶつかりそうになる自転車にイライラしたとき、「これは自然なんだ」と気を静めています。
自然は、こちらの思惑に関係なく、動いています。一匹一匹の蟻が、みんな自分の好きなように勝手に動くのと同じです。自由に動いているだけですから、ぶつかりそうになるときもあるわけです。それにイライラしても、仕方ありません。雨や突風、フンを落とすカラスと同じです。同様に、パートナーや子供の言動も「自然」なのです。
そう思っていたところ、先日、ある僧侶の方がある宗教新聞に「世の中の99%は偶然」と書いていました。世界は自然、偶然なので、自分の思うようにはなりません。自分が工夫して、対策を練ることはできますが、相手を変えることはできないのです。
仏教では、すべての生き物は、幸せになるために生きている、と考えます。人間だけでなく、野生の動物も昆虫も、花も草も樹木も、平和で満たされ、安全に生きることを願っています。つまり、このことが「自然」(本能)です。この自然、本能が、一人一人の人間で言えば、自我です。そして、この自我は、自分が生きることで精一杯で、本能的には自分の生命だけが大事なのです。だから、自分は自分、他人は他人で、本質的には、穴埋めは自分自身にしかできず、他人にはできません。家族ですら相手をコントロールすることはできません。自分の持ち物ではないのですから。これは、人情のあるなしではなく、生命の原理なのです。
だから、DVなど、他の人間を傷つけることは、幸せになりたい相手の生命原理を傷つけること、つまり尊厳を傷つけることになるのです。人の幸福を壊す生き方をしてはいけないのです。では、人の幸福を壊すのではなく、逆に、みんなが幸せになるのに大切なものは何か。
仏教でいえば慈悲心ですが、これは、人間の生き物としての本能ではないのです。生き物の本能のプログラムには慈悲心がないのです。だから、学んで、身につけないといけません。私が慈悲の瞑想を続けている理由は、ここにあります。今、日常生活のさまざまな瞬間を、慈悲心を養う訓練の時間だと思って、生きています。
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