「信じる」とは

言葉の定義を自分の中でしっかり解釈して定めていくという事は非常に大切です。

言葉の意味や影響力をよく考えず、思った事を思ったまま乱暴に使ってきた私にとって

言葉をとにかく、葛藤しながら紡ぎ出しています。

 

愛とか、幸福とか、責任とか、信頼とか、覚悟とか、反省とか、

守るとか、育てるとか、理解するとか、学ぶとか、変わるとか。

 

よくよく学ばず調べず悩まず自問自答もせず、耳あたりのよい言葉を並べて気持ちが良い快だけ味わっているようでは、まだまだだと戒めています。

 

今回はその中でも信じる、という事について綴ります。

人それぞれの解釈で善いという前提の上で、私の解釈の中での「信じる」とは

「あなた(わたし)がどのような姿形や思想、価値観、言葉、行動をしていても、あなた(わたし)のありのままを疑わず大切にする」という事ではないかな、と現時点では定義しています。

 

それは言うより物凄く難しい事で、すなわち信じるという事は気持ちだけでは絶対に達成出来ず、自分や他人を信じるという事は技術が必要です。

よく「信じる」「信頼する」「信頼関係」などという言葉を、生まれ老いる中で色んな所で見聞きし口に出しますが、私はそれを出来ているとは思いません。

 

自分や人を信じるというプロセスの中には、過去のトラウマや恥がしがみついてきます。妄想や思い込みによる不安と恐怖が間に入ってきます。自分との何かしらの違いに違和感や嫌悪感が邪魔してきます。各々の欲求や期待が交差していて、自分や人が持っている立場が欲求を増幅させます。

 

人や自分を信じたいのなら、今自分の中の何が障害になっているか、それを感じ考え捉えて、ハードル走のように乗り越えていかなくてはなりません。ジャンプ力、速度、体の曲げ方などの技術が必要なように、自分が今抱いている恥や不安や恐怖、違和感や嫌な気持ちの原因は何か、そして当事者意識と目的を持って克服していく努力が必要です。その為にたんとすまいるで「頭と心の技術」を鍛錬している面もある、と私は考えています。

 

しかし、そんな事を考えていると、たまに対人関係に悲しさを覚えてしまう事があります。

それは自分が言葉を定義する事で、「だから私はこうありたい、よし目指そう」という願いが生まれ、その成就には途方も無さがあるからです。

 

本当に自分や人を信じている方って、もしかしたら何も細かい事考えていないのかもしれません。

何故なら自分や人の事が、どんな外見や内面や思想、言動行動であろうと何も疑っておらず、

それ故自分とその人の幸福以外、何も望んでいないからではないのでしょうか。

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時の流れと空の色に何も望みはしない様に

素顔で泣いて笑う君のそのままを愛している故に

あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを守り通します

君が其処に生きているという真実だけで幸福なのです

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という歌があるように、

私の全てがどのようなものであれ、自分を疑わず信じているので私は何も失わないという境地。

あなたの全てがどのようなものであれ、あなたを疑わず信じているのであなたは何も奪われないという境地。誰だって、本当はそうありたいはずです。

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